Column
証券コラム
激動の50年
2021年3月5日 コラム1
ごく普通の一証券マンの悲喜こもごもの証券人生42年間を振り返ってみたい。私が某証券会社に入社したのは、昭和45年4月。18歳のことだった。
証券会社は何を生業としているのかもよくわからず、今はなき山一証券の名は知っていた。
それは、小学2年か3年の頃の記憶…とあるグランドで運動会が行なわれていた。(証券業界の運動会)友人と面白半分に山一証券社旗を振って応援した、多分お姉さん方におだてられご褒美にお弁当等頂いたのだろう。
高校3年春、担任から、『某証券の入社試験が○○日に東京本社で行われる。行くように』 と言われ会社概要の説明があったが、初めて聞く会社であった。当日3名が試験に臨んだ。(時期を分けて行われていた。)筆記試験と面接が行われ、面接官kら『君は、どのようにお客様を開拓しますか?』と問われ『一軒一軒回ります。』主旨の返答をしたことを覚えている。夏休み前に内定通知が届き、これで夏休み旅行に行けると不謹慎な考えだった。当時証券不況も癒えいざなぎ景気、就職も売り手市場だったことが幸いした。
3月入社前の研修が杉並寮で一週間程あり全国から34名集まった。例年の倍以上の人員。初任給前年の24,000円から30,000円と聞き皆で『おつ!』と驚きの声を上げた。
入社式は、本店大講堂で執り行われ、高卒男子は最前列で社歌を声高らかに斉唱せよと指示された。社長の訓示で今も覚えている言葉。『よき先達者たれ』
入社式を終え山中湖で研修後、配属先の発表があり、私は故郷の某地方支店管理課の辞令受け4月20日支店に学生服で(会社の指示)緊張の初出勤。久しぶりの男子の配属と聞かされた。当時はまだ電話交換手がいた時代、日経平均は、2,500円前後、始めの仕事は、短波放送から流れる刻々と変わる株価を、ヘッドホーンを耳にして、一階フロワーの一段高い壁にある100銘柄程掲示された黒板に、チョークで値を書き込む。最初は銘柄の位置がわからず右往左往する。大引けを伝えるアナウンスは兎に角速かった。慣れたころ、模造紙大の相場表(特定銘柄が中央、左から銘柄コード順に東証一部銘柄)に短波放送から流れる株価を記入していく。場所がわからないと営業マンが指で教えてくれた。相場表の周りを支店長以下営業マンが取り囲み株価の動きに合わせ、お客様から株式売買の注文を取っていく。注文はマークシート(確か買いが赤、売りが青)にマークし係が端末に流す。約定できるとプリントアウトされる仕組みだった。
営業行為は20歳からで、12月の証券外務員資格取得に向け受験勉強、(当時は6月、12月に実施されていた。)家でひたすら外務員必携と格闘。(気持ちばかりで内情は試験間際までさぼっていた)。試験会場は東京。当日向かう列車が故障で遅れる。会場到着が30分程遅れ、気が焦るばかり。落ちたかと不安の気持ちで翌日支店に出勤。支店長が、ご苦労と言って昼天ぷら屋Nへ連れて行ってくださった。生まれて初めて目の前で揚げたての天ぷらを食した。味はほとんど覚えていない。試験結果は、心配が杞憂に終わり、めでたく合格。
管理課では債券担当4、5年先輩の女性が教育係で一度教えを受けたことは二度と教えてくれません。他支店の担当者に何度お聞きしたことか…まだそろばんが主役で、管理課長席に固定電話機程の大きさの卓上計算器が一台あるのみ。
支店収益の柱は個人客からの株式手数料が主で、他募集物は、電力債、電話債、稀に事業債、割引債。投資信託は、毎月のファミリーファンドと時期によりオープン投信の販売。そのた金融機関、上場会社、事業会社の資金運用。
昭和45年は、大阪万博、日中国交回復、新日本製鉄誕生、社会面では11月作家三島由紀夫率いる盾の会の自衛隊駐屯地侵入事件が起こった、社会人1年生の歳が終わった。
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