Column
証券コラム
激動の50年
2021年3月25日 コラム2
翌年8月ニクソンショック、相場表を取っていた時、短波放送が伝える株価は軒並み下落。ザラバ表上で手が上下左右、体も右左といつになくせわしなく、伝える株価を書き漏れしないよう必死だったと記憶している。この日、株価大幅下落。『いったいなにがおこったのかちんぷんかんぷん』
この後、オイルショックから〇〇ショックと続くわけだが社会で起こる諸々の事象が株価に影響を及ぼすことの洗礼を受けた。
当時の米国ニクソン大統領がドル⇔金の交換停止、金1オンス米ドル35ドル固定する金本位性ブルトンウッヅ体制崩壊、1ドル360円→308円、大幅切り上げ。
小学校の担任で「円は360度、で1ドルは360円(多分雑学…)なんだ。」と教えられた様に記憶していた。これは正に、天動説から地動説的な展開。
マクドナルド1号店のオープンもこの年、「立って物を食べるものではありません。」と言われ続けていた身としては、ハンバーガーを口に頬張って道中を歩く映像に、吃驚驚きだった。
前年の大阪万博(万博といえば、三波春夫の『こんにちは、こんにちは世界の国から~』のフレーズが浮かんで口ずさんでしまう…)、翌47年の札幌冬季オリンピックと続き世の中全体に明るかった。
一方連合赤軍の浅間山荘籠城事件がおき、地元の民放テレビ終日放送。昼食時は、皆テレビに釘付けだった。機動隊員が食べていた、今では当たり前のカップヌードルもこの頃だろう。
昭和46年は、西暦1971年。8月にニクソンショックが起こり、日経平均株価が大暴落。日本も固定相場制の維持を断念し、1ドル360円の時代は終焉。その後、12月にスミソニアン協定が合意。ドルに対する為替レートが切り上げられ、通貨変動幅を上下2.25%以内に設定する新しい固定相場制を採用することになる。本質は、ドル安誘導をし、アメリカの輸出増加を図るのが狙いだったと記憶している。しかし、1973年頃には、変動幅もおさまらなくなり、完全な変動相場制へと切り替え。
日経平均株価2727.80円(8/13)⇒2190.10円(8/18)約25%近い下落。
今で考えると、30000円が一週間で22500円まで下落するということ。
その他、沖縄返還調印式、アポロ14号が月に着陸。今なお存在するお菓子が、こぞって発売。
昭和47年4月から晴れた証券営業マンとしてスタート、始めは上司と電力債の販売。電力会社支店から購入予定者リストを頂きリストを基に勧誘、販売。
いよいよ一人立ち。何をどうすればよいかわからず戸惑いの日々、そのうち先輩方から未稼働のお客様を一部引き継ぎ。よちよち歩きの営業。
また、端株整理を行う会社があり、株主名簿基に買い増して単位株に纏める提案。
開拓対象は、高額所得者名簿、開業医、他各種資料請求者、中でも税金読本、医師のための税金読本が役立った。お客様の転嫁されていない開業医を飛び込み営業。ほとんどが門前払いだが、何度か訪問するうちに奥様と話しができたり、まれに、「先生お会いになるそうです。」と通され逆に慌ててしまい、何を話たらと…戸惑うこともあった。
あるキノコ製造会社の社長様が、お客様になっていただいた。転勤で担当離れ、十数年後株式上場し、今や地方の優良企業。開拓のきっかけは定かではないが、確か…化学会社の株式買い注文だったかな。実家に帰省する都度、当時は小さな会社が、上場会社。感慨深く思い出す。
また、当地ではかなり大きな農機具メーカー専務宅で、当時珍しいグレープフルーツを出され、どう食べていいかわからず、奥様のなさる真似で、スプーンを果物入れるやプシュッと果汁が飛翔。赤面のおもいだった。
新規開拓も順調とまでいかないまでも、少ずつ自信がついてきた。
ある開業医を開拓し、私の大手のお客様になっていった。投資信託の募集で、上司から、先生に大きな金額で勧めるようにとのアドバイス受け、いざ勧誘。その頃は、大口でもせいぜい500万位、思い切って言ってみた(胸は早鐘のよう…) <続>
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